カンボジアで働いている人の備忘録

24歳、なんかカンボジアで起業したみたいです(他人事)

カンボジアでお世話になる予定の方とお話ししてきた

受け入れ先のオーナーとお話しした

現地でお世話になる予定の方が一時帰国されていたので、先日初めてキチンと話する機会をいただいた。

お世話になるのは、プノンペンにあるTrattoria Belloというこちらのイタリアンレストラン。

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Belloさんからお給金を頂きながら...というわけではなく、無給のインターンという形で1年ほど受け入れて頂くことになっている。ちなみにBelloさんでは人手が足りないというワケでもなく、今では現地スタッフだけでも店を回せるらしい。無給だから無理やりねじ込んでもらえた、という方が正しいかもしれない。

社会人2年目、社内ニート同然の文系プログラマー、営業経験ゼロ、英語スキル皆無、料理もてんでダメ。学生時代にホールやキッチンのバイトを少しやった程度。そんな自分でも受け入れて下さったのだから、感謝してもしきれない。

オーナーと話しながら、私は「出来ることがあれば何でもします」と伝えた。正直なところ、何をすればいいのかが分からなかったからだ。あれやって、これやって、と指示された方が楽だなと甘えていた部分もあったが。今思うと「なんでもします」って積極的な指示待ち人間の使う言葉だよなぁ。自分で考えろっつの。あぁ恥ずかしい。

そんな私の言葉に、オーナーは「何がしたいかを考えておいた方がいいと思います。あれもこれもだと中途半端になりますし...本気でやりきらないと、いい経験にはならないんです。ともかくガンガン失敗して下さい。ホントにダメな時だけ、アカンって言いますから」と返した。「まぁ何がしたいか分かってた方が、使う方も楽ってのがあるんですが」と笑いながら付け足す。私が何も考えていないことを見透かされたようで、思わず返答に詰まる。

私は「少し時間をください。正直言うと、何がしたいかって、今すぐに出てこないんです」と、しどろもどろに答える。オーナーはにこりと笑いながら「まだ時間はあるし、ぜひしっかり考えて下さい。その方が、きっといい経験ができると思います」という言葉を続けた。

「本気の失敗には価値がある」

オーナーはこう伝えたかったのか。どっかのモジャモジャ頭が一瞬だけ頭によぎる。実際にそういう生き方をしている人の言葉は、漫画のそれとは重みがまるで違った。なぜかは分からないが、言葉の重みだけ心が沈んだような気がした。

家に帰ってから色々考えた

「何をしたいか?」

何がしたいって?ぼんやりとした願望を垂れ流すだけなら「バリバリ成長できて、海外も飛び回って、そこそこのお金を貰って、たまに休みも取れる」ような仕事をしたいよ、そりゃ。

けれど「こんな風に生きてみたいなあ」的な願望は、何がしたいのさっていう問いの答えにはならない。何がしたいのか、ってのは「お前が必死になれるものは何か教えろやコラ」と言い換えているのと同じだと思うし。

私にはすっぽりと抜け落ちていた。目標とか、夢とか。そういうのが苦手なんだよなぁ。なんやかんやで24年間生きてきても、未だにやりたいことって見つからない。普段からアンテナ張ってないせいか。

何かに必死に取り組んで、思い通りにいかずに悔しい思いをして、それでも歯を食いしばって耐えて。そんな経験を振り返り、胸を張って「やりきったぞ!!」と言える。そういう経験の1つや2つ、生きてりゃ普通にあるもんらしい。そんな経験したことないけど。

なんとなく義務教育終えて、なんとなく高校入って、なんとなく大学卒業して。何かに本気になったような経験もなく、常に全力で70点を狙うような生き方をしてきた。ゆるーく、ゆるーく、居心地良さそうなとぬるま湯に浸かり続けたのが、私の人生と言っていい。

コンプ爆発でちょっと話が逸れた。何がしたいか、という問いについて自分なりに考える。

就活のあの頃、社会人2年目の今

2年前、就活の頃に同じテーマで悩んだ。あの時は悩みという程のものでもなかったけど。小学生が「しょうらいのゆめ」という作文に悩む。そんなレベル。頭が悪いのに学者希望。運動音痴なのにスポーツ選手。ブサイクなのにアイドル志望。要するに、 いい歳こいて自分にとって都合の悪いところは全てガン無視した理想像を夢見ていた。

最終的には現職のプログラマーを選んだ。プログラミングに興味があったとか、ベンチャーでゴリゴリ働きたいとか、そんな野心は全くない。「営業と違って楽そう!」とか「スキルがあれば身軽に働けそうじゃん!」という理由からだった。ヘッドハントされる有能プログラマーになるためにどれほどの努力が必要かは大して考えもせずに。ちょっと勉強すれば大丈夫だろ、と。

そして2年弱プログラマとして働き、あることに気づく。休日も自宅でシコシコ開発を続けるぐらいのパワフルオタクじゃないと理想の姿にはなれない 、と。勉強嫌い、飽きっぽい、作りたいものすらない。そんな人間がプログラマをやったところでたかが知れている。何に使うかも分からない部品を組み立てて次の作業員に渡す。クリエイティブさとは程遠い、さながら工場のライン工のような単調作業しか与えられなかった。

指示待ち人間のクソゆとり野郎じゃないか、という声が聞こえてきそうだ。実際そうなんだけど。「何かやれることないすか」と積極的に声を掛けるようにはしていたが、「ないから好きに勉強でもしてて」と放置プレイだった。自由にやれって言われると、凄く嫌だったことを思い出す。私にとって、目標とは常に与えられるものだったから。誰かがゴールラインを引いてくれるからゴールへ向かう。ゴールラインがなければどこへ走っていいかも分からない。自由という言葉にはゴールラインがない。これがとんでもなく嫌だ。仮にゴールラインを引いてくれたとしても、自己ベストは狙わずに制限時間以内の完走が目標。

ここまで書いてやっぱりなと思う。今も昔も悩みの根っこは全て「何がしたいか」という一言に尽きる。やりたいことない。目標ない。取り組んでも平均点で終わり。鳴かず打たれず。すごく楽だけど、楽しくはない。辛くはないけど、つまらない。どっかの働きマンが「社会舐めんなクソガキ」ブチ切れてそうだ。社会の荒波にもまれて身を削られてる人の気持ちは、悪いけど分かりません。ぬるま湯に波もクソもないし。

何がしたいか。何がしたいか。何がしたいか。あぁなんかもう腹たってきた。ゴールラインを引くのが苦手すぎて、自分に対する嫌悪感が湧いてくる。夢とか希望とか、そういうキラキラしたものに理解のない後ろ向きな人間。そんなレッテルを貼られているような気分だ。「何がしたいか」という言葉から、いったん離れよう。もうちょっと別の切り口なら、いい目標も浮かぶかもしれない。今日はここまでにしとこう。